風にゆれる白樺の葉っぱのように心がさわさわと落ち着かないと以前書いた。プライバシーを侵害するようで書くことを躊躇していたが、今日はその落ち着きの無さを感動に変えることができたので書いておきたい。

今日はP父の葬儀だった。亡くなったのは1ヶ月前である。日本以外で葬儀に出るのは初めてで、亡くなった後にすぐに式が行われないということがカルチャーショックだった。調べると、1週間から2週間後というケースがフィンランドでは一般的らしい。教会の都合がつかなかったり、Pが出張だったりと色々な事情もあったが、まさか1ヶ月後になるとはと驚いた私である。

P父はずっと病気だったのだが、それでも旅行に行ったり、普通の生活をすることが可能であった。しかし、私が今回フィンランドに来た頃から具合が悪くなり、9月に入ってから入院し、その後数週間で亡くなった。

お見舞いにも行けたし、亡くなった後にはホスピスの教会で最後のお別れの挨拶も出来た。これもまたカルチャーショックだったのだが、私にとって亡くなった人にお別れをするのは最後の敬意を払う当然の行為なのだが、中には「遺体を見るなんて信じられない」という考えの人もいた。文化も違うし、それぞれの考えだからいいと言えばいいのかもしれないが、私にとってはそれはとてもdisrespectfulなことで、なぜかものすごくものすごく腹が立った。

9月末に計画していた島への旅は、P父が入院する前から予定していたことだったが、私は亡くなったのだからキャンセルするのだろうと思った。しかし、「生きている者は人生を歩み続けねばならない」とPは行く気満々だった。それはそうだが、旅行に行くこたーないだろうと私は思ったわけである。しかし、P父の妹で、島へ一緒に行く予定だったV叔母さんに電話をしたら、「楽しみにしてたから行きましょうよ」と、予定通りの行動となったのである。

「ついていけないー」と思いつつ島まで行ったわけだが、食事をしながらV叔母さんからP父の思い出話を聞いたりして、「こういう弔いの仕方もありかな」と感じた。P父はセーリングをする人だったのだが、桟橋に向かって入ってくるヨットを見て、「父さんだったらあんなやり方はアマチュアだって言うな」「言う言う」と笑ったり、私が知らないP父の話なども聞けて良かった。島の美しさもあったが、行ってよかったと思える旅となった。

葬儀はとても美しい教会で行われた。一方の壁面はすべてガラス張りで、外に見える森の木々も教会の一部のようだった。天気も良く、淡い色のみで作られたステンドグラスから日の光が差し込み、静かで平和な雰囲気の中でのお別れであった。

P父は友人や職場の人にとても尊敬されていたとP父妻に聞いていたが、それを表すように100人以上の人が来ていた。教会での儀式の後、PやP弟と旧友の人たちで棺を持ち、墓地へ向かう。私も含め、花束を持っている人も多い。長い列を作ってみな無言で歩く。その間、教会の鐘が鳴り続ける。

墓地では、順番に花束を棺の上に捧げる。その際、一言挨拶をする。Pに花束を渡し、P娘と一緒に棺のそばまで行った。Pは、「父さん、ありがとう。良い船出を」と挨拶をし、花束を置いた。私は日本語で「どうぞ安らかに眠ってください」と言った。涙が出た。

その後、本当にたくさんの人たちが花束を置いていき、ああ、P父は愛され尊敬された人なのだなあと感動した。

葬儀の後は、食事会の場所へ移動した。同じテーブルの人は、P父とずっと学校が同じだったという紳士達だった。一人の男性は、「彼はとてもポジティブで前向きな人だったから、花束も明るい赤い花にしたのだ」と言っていた。

旧友が歌を歌い、P弟の子供たちが自分たちの書いた詩を読んだ。食後は「何か話したいことがある人はどうぞ」と自由にスピーチをする時間が設けられた。ほとんどスウェーデン語で行われ、ああ、ちゃんと勉強しておけば良かったと後悔した。

食事会はみな楽しく思い出を語って過ごした。会が終わり、Pと私も帰るのでP父妻に挨拶という段になって、私は自分の感情をコントロールできなくなった。言葉がわからないのでほとんど理解できなかったというのに、とにかくP父がこんなに尊敬されて惜しまれているということを目の当たりにして彼らの友情に感動し、ああ、もっとP父と話をしたかったという思いと、今フィンランドにいて葬儀に出ることが出来て本当に良かったという思いなどが押し寄せて来て、P父妻にハグされたときに涙があふれ出た。

病院にお見舞いに行って帰るとき、"Thank you for coming"と言ってくれたP父の笑顔を私は忘れない。