財布の中にあると思っていたお金がなかった、というのは大学時代に初めて経験した。

友達のアンとケニー夫婦が旅行中、飼い猫の世話をするために私は彼らの家に寝泊りしていた。cleaning ladyが週に何度か来るが、長く雇っている人なので勝手はわかっているから気にしなくていいと言い、彼らは休暇に出かけた。

何事も無く日々は過ぎ、明日の午後アン達が帰ってくるという日の朝、台所でコーヒーを飲んでいたら、お掃除の人がやってきた。あれ、子供連れ。小さい男の子と、乳母車に乗った赤ちゃん。おまけに彼女、妊娠してるじゃないか。子供連れで来るなんて聞いてなかったが、長く雇っている人らしいし、いつもこうなのかなと、多少不思議に思いながらも、特に不審には思わなかった。

彼女はとても可愛らしい顔をした若い女性で、ニコニコとして感じの良い印象を与える人だった。英語はあまり話せないようで、笑顔で何か母国語で言いながら、子供を連れて奥の部屋の方へ行った。しばらくして掃除機を持って出てきた彼女は、さらに笑顔で何かを言い、どうやら大学生かと聞いているのだなとわかったので、イエスと答えた。本当は朝食を家で食べようと思っていたのだが、掃除の邪魔かも、と思って大学のDeliで食べることにし、私は寝室においていたカバンを取って、大学へ向かった。

Deliでのオーダーはカウンター越しに行い、先にお金を払う。適当にオーダーして、レジで支払いをしようと財布をあけたら、昨日おろしたばかりの20ドル札がない。What?と声に出して固まった。I KNOW I had a 20-dollar bill last night. それは絶対確かだった。ということは、Did the cleaning lady...? No, that young girl with the cute smile? と思うが、彼女が寝室に行ったときに盗んだとしか考えられない。考えたくないが、それ以外説明がつかない。ものすごく気分が悪い。額の大小の問題ではない。Someone actually went through my bag, and stole money from my wallet. I felt so invaded. 物を盗られたという経験が無かった私は、かなりのショックを受けた。レジの人に盗られたといっても仕方ないし、取りあえず、現金がなかったから注文はキャンセルしてくれ、ごめん、と謝り、Deliを出た。

アン達の家は大学の近くだったので、すぐさま引き返した。ショックから立ち直ると段々と腹が立ってきて、「小さい子供かかえて大変だと思っていたが、人のお金を盗むかっ、許さん、何が大学生ですか、だ」とムカムカしながら自転車をかっ飛ばした。家に着くと、彼女は掃除機片手に、"what happened?"と言う。それくらいは英語で言えるらしい。なんといっても彼女が盗ったという証拠があるわけではないので、いきなり「あんたお金盗ったでしょ!」と怒るのははばかられる。そこで、「あるはずのお金がないのだが、あなたはそのことについて何かを知っていないか」と聞く。大体英語がよくわからない女に向かって、べらべらと英語で話しても通じるわけはないと思うところだが、通じたのだ。小首をかしげて、「のー、あいどんのー」と答えたのだ。"I think you do know something about it."と恐い顔して言ったが、相変らずその可愛い顔をゆがめて、「のー」と首を振る。お札に私の名前が書いてあるわけじゃなし、現場を押さえたわけじゃなし、これ以上彼女に言っても押し問答になるのは目に見えている。アンが気に入って長く雇っているというのなら、家のものを盗るということは今までなかったのだろう。物は盗らないが、現金は盗るのか。目に付いたカバンを探ったら、現金出てきてラッキーってことかい、とむかつきながら、「このことはあんたの雇い主に話すからね」と言い、バイトに行くべくまた大学に戻った。「のー」と言うのなら、本当に彼女ではないのかもしれない、と5%くらいは思った。じゃ、なんでお金がないのよ。悪い妖精が盗っていったとでもいうのか、まさか留守の間に家具とか盗っていかないだろうな、と一人で頭の中で会話をしながら、バイト先へ向かった。

バイト先に着いて上司に事情を話したら、すぐに20ドルを貸してくれた。「とりあえず朝ごはんを食べてきなさい」と言ってくれたスーパーいい人であった。でももう食欲が全然なかった私は、オレンジジュースだけ買って、仕事にかかった。でも家のことが心配で集中できない。「今日は帰ったら」と上司も言ってくれたので、1時間もしないうちに戻った。

家に着くと、既に彼女達親子はいなかった。外のデッキを見ると、ふやけたマカロニがばらまいてある。なにこれ。勝手に台所にあるものを調理したのか。でも、なんでデッキに食べ残しが捨ててあるのだ。掃除機をかけた跡がカーペットについてはいるが、台所周りなど私が出たときのままだ。デッキのマカロニを考えれば、前より汚れているではないか。なんなのだ、あの女は、とぷりぷりしながら私はデッキにホースで水をかけて掃除をした。

その晩、アンから「明日帰るから」と電話があった。休暇中の彼らに電話でこの件を伝えるつもりはなかった。彼女は、「言うのを忘れていたのだが、I left a 20-dollar bill in the box by the window in our bedroom for emergency.」と言う。寝室の電話で話していた私は、すぐに箱を開けてみたが何も入っていない。くらーい気分になりながら、"I don’t see any money."と言うと、「そんなわけない、よく探せ」と言うが、どこを見てもお札は無い。誰がそのお金を持っているかは私にはわかっており、胃のむかつきを覚える。アンは"OK. That’s a major disappointment."と何かを察したようで、"Let me take care of it when I come home."と言って、電話を切った。

次の日の午後、バイトから帰るとアンとケニーが既に帰宅していた。"I need to talk to you."と二人を座らせると、ケニーが"Oh no. Someone died?"と本気で心配している。"No, no, no one died."と苦笑し、cleaning ladyとお金の件を説明した。子供連れで来たという時点で、彼らは「それはいつもの人じゃない」と言う。ええ、じゃ、あれは一体誰、とのけぞる私。"She was pregnant, too."と言うと、"That's definitely not our cleaning lady."とアンは笑う。もっと年上の人だというのだ。ケニーが家周りの作業をするときにときどき手伝いを頼む男性の奥さんらしい。すぐに彼に電話してみる、とケニーは寝室に引っ込んだ。

話を聞いてみると、その奥さんは今実家に帰っていて、代わりに知り合いの娘をよこしたというのだ。自分が来られないからと言って、雇い主の許可無しに代わりをよこすということは信頼関係をくずす、とケニーは言い、もう来週から来なくていいという話になった。

盗られた20ドルプラスアルファをケニーは私に渡して謝った。なんだか、ケニーからもらうのはおかしい話だとは思ったが、偽cleaning lady達とのやり取りは彼らがすることで、私はケニーからもらってもいいのかもしれない、と思ってありがたく受け取った。

アンの宝石類はわからないように保管していたので無事だった。その後、別のcleaning ladyを雇ったと言っていた。今度の人はまともな人らしく、「普段使わない銀食器をわざわざ取り出して、磨き上げてくれるのよ、she is great」と満足していた。使用人を雇うというのも、色々苦労があるもんですなあ、と思った経験であった。